アメカジショップ「ヒノヤ」

アメカジショップ「ヒノヤ」が上野・アメ横から紡いだ70年の歴史を振り返る

戦後の闇市で、米軍の放出物資やアメリカの輸入雑貨、ジーンズが集まったことでアメリカ文化の発信源となっていたアメ横。そのような地でアメカジの名店として70年も走り続けてきた名店といえばヒノヤ以外にない。その長きにわたる歴史は、日本のアメカジの歴史と言って過言ではないのだ。

歴史が生む揺るぎない信頼、キング・オブ・アメカジの名店「HINOYA」

遡ること70年程前、新潟から上京し、浅草通りに面した東本願寺入り口の角で今川焼店を営んでいた“ひのや”。しかし、その周辺にあった米軍放出品を扱うお店が大きな話題になっていたことを機に、先代社長の新保金吾が今川焼店をたたみ、輸入を中心とする軍の放出品などを取り扱うようになったことが、このショップの原点だ。

1959年に現在のアメ横・御徒町駅前通りに移転。そこから60年にわたり良質なアメカジファッションをエンドユーザーに提供し続けているヒノヤ本店。 品揃えの豊富さはもちろん、足を運べば博学のスタッフが優しく出迎えてくれる。上野と言うより、日本で“アメカジ” といえば外すことができない名店だ。

そこから度重なる移転ののち、1959年に現在のヒノヤ本店となるお店が上野にオープン。1968年には株式会社ヒノヤを設立し、米軍放出品に限らずアメリカの輸入品を多く取り扱うようになっていった。ここからリーバイスを中心としたジーンズも輸入するようになったのだが、店舗の運営も次第にリーバイスと軍物、アメリカ輸入の洋服が中心となっていったことで、“アメカジ”ショップとしてのスタイルが確立していった。

ヒノヤの店頭には、いつの時代もフライトジャケットやスカジャン、季節物とともにジーンズが陳列されている。アメカジの爆発的ブームが去り、他店がカジュル色を前面に打ち出した店舗に変わってもそれは揺るぎない。そのようなポリシーが、ジーンズショップとしてのブランド確立の一端を担っている
そうして迎えた’90年代では、アメカジファッションの一大ブームをド真ん中で感じ、その立役者としてシーンを支え、多くの人たちの心を掴んできた。そして今は当時学生だったお客さんが、子供を連れて買い物に来てくれると当時を知るスタッフは話す。そこには長年の歴史で積み上げたヒノヤだけの信頼が存在していた。

2019年、創立して70年のメモリアルイヤーを記念して特別制作したアートがこちら。アメリカ軍の放出品を扱う前は今川焼屋だったというのも、ヒノヤ商店の看板に隠れた建物の2階部分を見れば一目瞭然。創業したての頃にも関わらず多くの人お客で大盛況だ。

“選ぶ”楽しさを与え続けたい。時代に合わせて進化したアメカジを提案。

ヒノヤの歩みは、常に新しいことへのチャレンジの連続だ。近年ではオリジナルブランドのバーガスプラスがその最たる例と言える。

そもそものスタートは、’90年代後半にリーバイスが製造をやめたモデルや、リーバイスに足りなかったものを補うためのものだった。ヒノヤにしてもリーバイスのジーンズは売り上げの8割を占めていたため、なくなってしまうのならば作ってしまおうというのも自然な流れ。長年の販売歴から製造のノウハウも持っていたため、満を持してバーガスプラスをスタートさせた。

しかし当時はジーンズプロショップが減り、カジュアルショップへ移行する時代。最初はなかなか売り上げを立てるのに苦労したとのこと。だがそれもチノパンのヒットで巻き返し、さらに世の中の流れから、小売のオリジナルアイテムからひとつのブランドへ昇華させていくチャレンジを試みた。高品質なものを適正な価格で提供することにこだわり、ブランディングを再構築。トータルコーデができるブランドへと成長を遂げ、他の王道アメカジブランドと肩を並べるほどの急成長を遂げた。

こうして多様化する時代の変化に呼応し、ユーザーへ多くの選択肢を与え、選ぶ楽しさも同時に提供するなど進化が止まらないヒノヤ。これからも新たなアメカジを我々に見せてくれることだろう。

公式サイトはこちら

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